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それを、吸血儀式と呼ぶ、というのを知ったのはずいぶん後になってからだ。
彼の牙が首筋に触れるのを待つ時からずっと、心臓が壊れてしまうのではないかというぐらいにドキドキした。それが、別の種になるという緊張からなのか、もっと別のものなのか、彼女にはまだわからない。
それでも。
世界の色が、塗り替えられた気がした。
「すごい」
ぼんやりしている氷辻の頭に、彼が手を置いた。
「顔が真っ赤だ」
「そ、それは、だって…」
ほてった顔を冷やそうと、氷辻は両手で頬を覆う。そして、取り繕うように彼を見た。
「え、えっと、あの、あの猫、は」
彼女が勝手にネコバックと名づけた猫は、結局あれから姿を見ない。
「ああ、あれはなんというか…僕の作り出した操り人形みたいな…」
言って、小さく吹き出した。
「ネコバックはひどい」
「あ、え、あれはその」
おろおろとする氷辻に、彼は言った。
「いや、君はおもしろい子だね」
「…そんなこと、初めて言われました」
「ふうん。この国の者は見る目がないな」
それは違う。
自分が、そういう機会を全て遮断してきたからだ。
それも変われる、だろうか。これを機に。
「もし、」
ふいに氷辻は言った。
「明日から変わりたいと願って、明日から違う自分になるとしたら。今日までの自分は無駄になってしまうのでしょうか」
ぼんやりと独り言のようにつぶやく言葉に、彼は丁寧に答えた。
「僕は長く生きてきたが、一時たりとも無駄だったことはない」
その答えが不満だったわけではないが、氷辻は重ねた。
「思い出したくないようなつらかったことや、悲しかったことも?」
「つらかったことも、悲しかったことも。それがなかったら、今の自分にはいくつか欠けているものがあっただろうと思う」
「ここで、封印されていたことも?」
「それがなかったら、君にも会えなかった。…ああ、君にはその方が良かったかも」
「そんなことないです!」
彼の言葉に勢い込んで、氷辻は身を乗り出すように言った。
それだけは、訂正しておきたい事実。
「わたしにとって、この夜は、本当に…」
言いながら、声が小さくなる。
…そこには、予感があった。確信に近い、予感が。
「さて、僕は行かなくては」
ここで別れたら、もう会えない。
見上げる氷辻に、彼は微笑む。
「待たせている人もいるからね」
連れて行って欲しい、と、のど元まで言葉が出かけた。
けれど。
強くなる、と決めた。
それは、ここで、この場所で。自分の場所でやっていかなければ意味がない。そのことを彼女はちゃんとわかっている。
だから、ここで。
「君の事は知り合いに話しておこう。今後のことは、いずれ連絡が行くだろう。たしか、ヴァンパイアの組織があるとか…前に聞いた」
お別れなのだ。
「はい」
「同じような仲間がたくさんいるから。きっと支えあえるよ」
もう会えない。
きっと、縁はここで終わってしまう。
彼は何も言わない。きっと問えば、また会えるような言葉を言ってくれるだろう。けれど、それに嘘の気持ちはなくとも、重要な約束にはならないだろう。そんな風に氷辻は彼を理解していた。
彼の人生にとって、氷辻はささやかな意味しか持たない存在でしかないのだろう。
「名前を聞いておこうか」
「一七夜月、氷辻」
「ヒツジ」
彼が繰り返す。
氷辻はあえて彼の名は訊かなかった。彼も言わない。
「あのっ、」
それでもその瞬間を少しでも引き伸ばしたくて、氷辻は声を上げた。
「それ、もらっていいですか」
指差すのは、彼の棺のそばに落ちていた青いリボン。彼の封印となっていたものだ。彼はそこまで戻ると、それを拾い上げた。
「僕にはいらないものだけど…装飾にはちょっと長いんじゃ」
「別に結ぶわけではありません。えっと」
そして、自分の髪を結んでいたリボンを引っ張ってほどいた。黒いリボンに薔薇の飾りがついている。
「これを、代わりにもらってください」
差し出してから、なんだか恥ずかしくなってしまった。
「いや、こんなのもらっても困りますよねっ。今髪に付いてたものだし…」
引っ込めようとした手から、彼はそのリボンを抜き取った。そして、彼女に青いリボンを差し出す。
「可愛い従属種の思い出に」
「……ありがとう」
青いリボンを受け取る。そして、彼を見上げた。
覚えておこう。その美しい闇色の髪も、やさしいまなざしも、もらったたくさんの言葉も、この月も、空の色も、薔薇の香りも。
全部全部、記憶力を総動員して、覚えておく。
だって、お別れはすぐそこに来ている。
氷辻は思い切って訊いた。
「わたしのこと、覚えていてくれますか」
彼は何も言わず、彼女の頬に触れて微笑んだ。それが、肯定なのか否定なのかわからない。わからないまま彼女はもう一度続けた。
「わたし、強くなれますか?」
彼はその笑みのまま、優しく言った。
「その崇高な魂に見合うくらいには」
いつの間にか、彼はいなくなっていた。
月は何もなかった顔をして光を振り撒いているし、薔薇はそれまでの物語を忘れさせようとするかのように甘い香りをこぼす。
でも、確かに氷辻の手の中には青いリボンが残っている。
数歩歩いて、氷辻は力が抜けたように座り込んだ。スカートや足が汚れるのも気にならなかった。ただ、あまりに大きな出来事を乗り越えたあとの脱力が、彼女を襲っていた。
もう会えない。
いなくなって、その現実が彼女を飲み込んだ。。
ふいに涙がこぼれる。
好きになった。
彼を見た時から、そんなことにはとっくに気づいていたはずなのに、気づかないふりをした。
だって、もう会えないもの。
涙はぽとぽとと土の上に落ちた。
わたしにとって、この夜が人生において物凄く重要な意味があっても、彼にとっては、ちょっとした出来事にしかならないのが、わかってたのだもの。
涙が落ちる。ずっと、泣いたりしたことはなかったのに。
右手でそれを拭う。拭っても拭っても、それは止まらない。
ずっと、欲しいものも守りたいものもなかった。
初めて、心から欲しいと思ったものは、決して手に入らないとその瞬間に解ってしまった。それは、とても苦しくつらくて、心が深く痛んだ。
でも、だからといって、これからも欲しいものも守りたいものも作らずにいるのだろうか。
そんなのは、寂しい。
そう、わたしはずっと寂しかった。だから強くなりたかった。
だから、こうして力を手にした。
なのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。
せめて、ここにあの猫がいてくれればよかったのに。
でも今自分は一人なんだ、と思った。
いや、今までだってずっとそうだった。それでも寂しいなんて思ったことなかったのに。
今日、今夜、今。気づいてしまった。
拭っても拭っても涙は止まらない。
ただ、そこに座り込んで涙をこぼす。
欲しいものも守りたいものもない。そんなのは、寂しい。
すごくすごく、寂しい。
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