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陽だまり幻想 2
再び彼は公園にやってきた。今日は嵐も一緒のときに。
「こんにちは」
挨拶をする彼に警戒心をあらわにする嵐に反して、華呼は「こんにちは」と挨拶をする。驚いたように、嵐が華呼を見た。
「お母さんに、話した?」
「はなしてない。きっとおかあさんはぜったいにだめっていうから。でも、わたしが行く」
彼は少し考えるしぐさをする。事態がわからない嵐は華呼の袖を引っ張った。華呼はそちらを見ない。
「…確かに、のばらはどちらも手放さないだろうけれど」
「のばら?」
「おかあさんのなまえだよ。ハナちゃん、このひと、だれ?」
横で嵐が問う。華呼は小さく首を傾げる。
「えっと、おとうさんの?」
「弟」
男がさらりと続けた。瞬間、嵐は華呼の手をぎゅっと握った。そしてその手を引いてベンチから飛び降り、走り出した。
「ら、ラン!」
「あの人だよっ、きっと」
「え」
その後ろに、声がかかる。
「夕方、迎えに行くよ」
と。
「なに、ラン、なに」
「おかあさんはきっと、あの人から逃げてたんだよっ」
「うん、そうだね」
家の近くまで来て、ようやく嵐は速度を緩めた。そして、華呼を振り返る。
「なのになんでっ」
詰め寄られて、華呼はおどおどと言葉を失う。色々なことが、上手く説明できない。
「だって、わたしかランがいけば、まいにち、ちゃんとしていけるようにしてくれるっていったよ。だったら、わたしがいけば」
「ハナちゃんのこともおかあさんのことも、ぼくがまもるよっ」
「むりだよっ」
思わず言ってしまってから、華呼はそれをひどく後悔した。言わなければ良い言葉だったと。けれど、口に出してしまった言葉は戻すことはできない。
それに、二人とも痛い程によくわかっていた。
自分たちに力がないと。
何かを守ったり、成したりするには、その両手はあまりに小さく力がないことを。
この疲弊していく毎日に終止符をつける術がないと。ただただ、自分たちをすり減らせていくことしかできないと。幼いながらに、わかっていたのだ。
「ハナちゃんは、ぼくたちをすてるんだ」
ふいに、嵐が言った。
嵐は時々、華呼が反論できないような難しい言い回しをする。
「ち、ちがう、よ」
「でも、ひとりでいくつもりなんでしょう」
「だって」
おかあさんは、嵐が残った方がうれしいよ。
とは、自分の口から言いたくはなかった。ただ、うつむいて黙り込む。
嵐は何も言わずに家に向かうために歩き出す。華呼もそれに少し遅れてついていく。
もう、手はつないでもらえなかった。
夕方まで、二人は口を利かずに過ごした。
「これは、ランにあげるね」
いつも読んでいた本を、華呼は嵐に差し出す。嵐は何も言わない。その本を床に置いたまま、華呼はうろうろと部屋の中を歩き回って、何か持っていくものはないだろうかと捜してみたが、特に思いつかなかった。
と、ドアが乱暴に開いた。
そちらを向く間もなく、母が部屋に飛び込んできた。いつもの仕事帰りより早い時間だ。
「ハナちゃんっ」
その名を呼んで、華呼に駆け寄って抱きしめる。
「烏兎沼に行くって、言っちゃったの? 言ったの?」
「うとぬま?」
「だめだよ。お母さん、頑張るから。みんなで暮らしていくのよ? だからずっと逃げて来たんでしょう」
「おかあさん」
「…さすがに、母親の承諾なしに連れて行くわけにはいかないからね」
戸口の方で声がした。華呼が首を傾けて、母親の肩越しのそちらを見ると、あの男がこちらを見ていた。はじかれたように母はそちらを見た。ほとんどにらみつけているような眼差し。そして鋭い声で叫ぶ。
「いや。嫌です! 華呼も嵐もわたしの子よ! わたしとあの人の子よ! 烏兎沼の跡継ぎなんか知らないわよ! ずっと三人で暮らすわ!」
「でも、君にその力はないだろう」
母の声に対して、男は冷静だった。
「君だって昔よりずっと健康状態が悪そうじゃないか。子供たちだって、そんなに痩せている。このままだと、いつか三人のうちの誰かが死ぬだろう」
彼はそこで一度言葉を止めた。そして。
「兄のように」
母が息を呑む。そして、その彼女を抱きしめる手に力がこもるのがわかった。
「おかあさん」
華呼の呼びかけに、母は腕を緩めた。そしてその顔を覗き込む。
「おかあさん、わたしのこと、すき?」
「あたりまえでしょう」
「わたしもすき。だから、わたし、いくね」
「どうして!?」
「どうしてって…」
それが上手く説明できなくて、華呼は黙り込む。
多分、何年か年を重ねれば言えただろう。
お母さんと嵐に、幸せになって欲しいから、だと。
けれど、今の華呼はその言葉を持っていなかった。ただ、胸の内で願うしかできないのだ。
「わたし、いく」
「ハナちゃん…だめよ…」
「でも、いく」
繰り返す華呼の言葉に、母の腕から力が抜ける。彼女にもどうしようもないことは、分かっているのだ。自分ひとりの力では、二人を守っていけないと。だけど、ずっと、それを認めるわけにはいかなかったから。ただ、死に物狂いで、自分の力だけで二人を守ろうとするしかなかった。
守りきれなかったとしても。
それは認めるわけにはいかなかった。今の今まで。
娘が、それを知っているということを、知るまで。
華呼は母の隣を通り過ぎて、彼の元へ行った。そして、背の高い男を見上げる。
「わたしがいく」
「そうか」
彼はなんの感慨もないように返事をした。
「なにか、もっていく?」
「いや。名前を聞いてなかったな」
「華呼」
「じゃあ、今日からは烏兎沼華呼だ」
「ハナちゃん!」
母が呼ぶ。
お母さんは、嵐だけじゃなくて。わたしもちゃんと好きだって。それが分かってよかった。
そう思って、華呼は母ににっこり笑うと手を振る。
「げんきでね」
そして彼について、家を出た。
と、
「おねえちゃん!」
ずっと黙っていた嵐が声を上げて追ってきた。
「おねえちゃん、いかないでよっ。行っちゃやだ!」
「ラン」
「おいてかないでよ!」
泣き出しそうな目。同じ色の目と髪。よく似た風貌。おそろいの緑のスカート。
生まれた時から片時も離れたことのない。大好きな、弟。
それでもやっぱり、お母さんには嵐の方が必要なの。嵐が傍にいた方が、おかあさんにしてあげられること、たくさんあるから。
そうしたら、わたしにはこれができるから。
「おねえちゃん!」
呼ぶ嵐に、華呼は小さく手を振る。「さよなら」と口の中でつぶやく。そして、男を見上げた。
「おかあさんとランは、だいじょうぶなんだよね」
「ああ。十分な援助をするさ」
「わたしは、なにをするの?」
「烏兎沼の人間として、まあ、とりあえずはたくさんの勉強をしてもらうことになる、ということか」
「むずかしい?」
「かなり大変だろうな」
「そう」
促されて、華呼は車に乗せられる。それまでも、ずっと嵐が呼んでいるのが聞こえていた。
おねえちゃん。行かないで。置いていかないで。
でも、もう華呼は振り返らない。
振り返ったら、嵐に駆け寄ってしまう。
車の後部座席に乗せられ、続いて男が乗り込み、ドアが閉められる。
そして、声は聞こえなくなった。
もう帰れない。
瞬間、華呼は何か取り返しのつかない大変なことをしたような気がした。
でも、もう帰れない。
嵐はいない。
いつもつないでいた手は、もう遠すぎてつなげない。
もう、「帰ろう」って、手をつなげない。
でも、きっと嵐はお母さんと一緒にいてくれる。お母さんを助けて。お話の最後みたいに。いつまでも末永く、幸せにくらしました、って。そんな風にいてくれる。
だから、これで良かったんだ。
そこはもう、自分の帰る場所じゃないけれど。
ふいに涙がぼろぼろとこぼれてきて、華呼は泣いた。声を上げて。
ごめんなさい。もう泣かない。今日だけ。
そんなふうに、言ったかもしれない。けれど、少し離れて座っている男は、何も言わない。
ただ泣きじゃくって、泣きつかれて眠って。眠りに落ちる直前。大きな手が、頭を撫でたような気がした。
でも、それはもう、記憶の底に。
あまりに幼すぎた日々は、彼女の中には留めておけず。弟の記憶を「妹」にすり替え、母の記憶も、逃走の日々も忘れ。記憶からどんどんこぼれていった。
人生において、双児であった日々よりも、血の繋がらない兄と共にいた時間の方が増えていく。兄を大事に思うようになっていく。
ただ、帰る場所を失くしたという想いだけが、彼女の中に楔のように打ち込まれていた。
そして、その後の烏兎沼になるための日々は、彼女を丸ごと変化させていく。
厳しい訓練も、礼儀作法も、勉強も。彼女は必死でついていき、恐ろしい勢いでそれらを吸収していった。それらに塗り替えられるように、過去の彼女は徐々に消えていった。
あの頃の鴫谷華呼はどこにもいない。
嵐の姉だった華呼は、もう、どこにもいない。
それでも。
幼い頃にたしかに存在した支えを彼女は失くしている。
その心の不在はなにものにも埋められない。
だからそこを不在にしたまま、彼女は今に至る。
その記憶だけを薄めていく。
なにものにも埋められない、暗い不在を抱えたまま。
* * *
よく晴れた日だった。
真っ青な空に、真っ白な雲が筆で撫でたように走っている。
川辺で少年は花を摘んでいた。大好きな姉を元気づけるための花。
そこへ、少女はそっと忍び寄る。笑い声を殺して。
そっと近寄って、後ろから目隠しする。
「だーれだ」とか、声を出したらすぐに分かってしまうから、声は出さない。
いや、声を出さなくても、きっと彼にはわかる。
わかっていながら、はしゃいだ声を上げる。
「だれ?」
少女はすぐに手を緩める。少年が振り返るのにあわせるように、微笑んで言った。
「おねえちゃん、だよ」
それは、もう現実には起こりえない、
陽だまりの、夢。
陽だまり幻想 -現在- に続く
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