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凍える夢見 4
いずれわたしは、
わたしを捨てる。
* * *
「もう行ったかな。華呼」
独り言のように、一樹は言った。傍で本を読んでいた鳥子が顔を上げる。
「こちらにご挨拶に来てませんよ」
「うん、いらないって言ったからね。ちゃんと、家を出れたかな」
ぼんやりと続ける一樹に、鳥子はくすりと笑った。
「心配なら、挨拶に来てもらえばよかったのに」
「うーん、でもあんまりお互い依存しすぎるのも良くないし。華呼の行動をあんまり邪魔したくないから」
「一樹さんは本当に、華呼様が大事なんですね」
「お兄さん、だからね」
言いながら、一樹は考える。
大事、というよりは、心配、だ。自分が彼女の歩く道を邪魔していないのか。
思い出す。彼女がまだ高校に入る一年程前。
一樹が高い熱を出して寝込んだ、あの時。命を落とす程の脆弱さを無くしはしたものの、それでも彼はまだ健康とは言えなかった。いつまた死神が手を引きに来るのかわからない状況。
しかし、幼い頃からそれと隣り合わせにいた彼には、それが怖いとは感じなくなってしまった。
ただひとつ、気がかりなのは妹のこと。
自分の代わりに、この家に縛られ続けるであろう少女のこと。
だから、熱が引いて話が出来るようになり、華呼がお見舞いに来た時に一樹は言った。
自由になってよいのだと。
たくさん大事な人を作って、外へ世界を広げるのだと。
しかし、一樹はその時言い方を誤った。
「僕の遺言だと思って、きいてくれないかい?」
どこか冗談めかして言った。が、
「いやです」
いつになくきっぱりと華呼は言った。
「『遺言』などと言うのなら、絶対、聞きません」
その強い口調とは裏腹に、その表情は泣き出しそうな、叫びだしそうな。そんな不安定で、傷ついた子供のような顔をしていた。
「兄さんは、今でも自分は死んでもいいと思っているんですね」
「そこまでは思ってないよ」
「兄さん」
静かな声。それでもその直後には何か感情が爆発するだろう、そんな声。
が、
意に反して華呼は笑った。
その笑みに、なぜか一樹はぞっとする。
……そして、自分が失敗をしたことを悟った。
「もし、兄さんが自分は死んでもいいとか思っていて、そんな遺言を残すなら」
華呼は微笑む。
「あと、追いますからね」
一瞬何を言われたかわからなかった。そんな兄をよそに、華呼はそのやわらかい笑みのままに続けた。
「兄さんがそんな風に逝くというなら。わたしはあと追います」
さらりと、告げる。
「遺言なんて、聞いてあげません」
彼女が弱くはないことは知っていた。それでも、あの時ほど力強い眼差しを見たことはない。
彼女は弱くない。
けれど、その歩みをためらわせているのは、他にいろんな要素があるにしても、自分の存在もその一端を担っている。
――思っていたら。…それについてだけは、わたし、考え変えていませんよ。
あの時と同じ笑みで告げた言葉を思い出す。
それでも。
彼女は大切な人や場所を作ってきた。
「自由になって、いいのに」
「え」
鳥子が聞きとがめて問い返す。一樹は小さく微笑んだだけで、それには答えない。ただ、胸中だけで続ける。
幸せになっていいんだよ。
* * *
物心つく前から、ずっと家の為だけに生きてきた。
勉強も、鍛錬も、礼儀作法を学ぶのも。全てが烏兎沼の家のためだった。
そのためだけの生だった。
自由になる。
家をでるというのは、それをすべて無に帰すということだ。
今までの人生の半分以上の意味を消失する。生きてきた時間のほとんどを無駄にする。
それを思うとぞっとした。
わたしの生きてきた時間は、いったいなんだったのだろうと。
華呼は額を窓ガラスに押し付けた。冷えた外の空気が硬いガラスを通して体に伝わってくる。そのまま、流れていく灰色がかった景色を眺めていた。
自由になる、という意味がよくよくわからない。
そこから出たら。自分の周囲に真っ白な風景が無限に広がるようなイメージしかわかなかった。
自分にはまだ何もない。
それでも。
彼女はそれを予感している。
きっと、わたしはいつか全部捨てる。捨てられる。
だから、あの家にいつも置いて来る「昔の自分」が。烏兎沼のためだけに生きてきて、その瞬間存在意義をなくす自分が。その恐怖が。手を引く。
うそつき、と。
ため息をつくと、その息はガラスを曇らせて余計に風景を不鮮明にする。
捨てることができる自分と、そうすることに恐怖している自分と。二つの想いが相反している。それが幻となって現れるのだろうか。
親戚をあざ笑い、捨てようとしている自分を引き止める。
何に関しても、本当は無関心でいる胸の奥を見透かす。
誰のことも好きじゃないくせに。
母の前では現れないのは…たぶん、母を前にすると恐ろしく決心が鈍るからであろう。
母を前にすると、捨てることなどできないのではないかという気持ちが首をもたげる。
だからその時「妹」は現れない。
その、幻の姿を思い出してみる。
小さな少女。華呼と同じ髪の色、瞳の色。たぶん、昔の、自分。
しかし、どうしてそれが「妹」なのか。何故彼女に「お姉ちゃん」と呼びかけるのか。華呼はそれをまだ思い出さない。
記憶にしっかり蓋をして。思い出せはしない。
その「妹」は言う。
お兄ちゃんも捨てるんでしょう。本当は、好きでもなんでもないから。ただ、親切にしてくれる人だから、手放したくないだけなんでしょう。
そんな自分の想いだって、本当はわかっている。
…たぶん、兄だってわかっている。それでもなお、彼は言う。
自由になっていいと。
でも、ずっと籠の中にいた小鳥は、外に出ても戸惑うだけだ。
籠から放たれたら、帰る場所を失う。
どこへでも飛んでいけるが、何処かへ行く力は持っていないのかもしれない。
それは、自由と呼べるのだろうか。
聡い兄がそれに気づいていないわけでもないだろうが。それとも自分の罪悪感でそこまで意識が回らないのだろうか。
そんな兄の突き放した想いに、わたしは暗い想いを抱いているのかもしれない。
でも、兄さんを好きなのは、嘘じゃないと。少なくとも自分は信じたい。あの人を、とてつもなく大事だというのは、本当なんだと。
わたしじゃなくていい。誰かに守って欲しいと思うのは、わたしの身勝手さもあるとしても。彼の幸せを願う気持ちだって、あるはずだ。
たとえ、自分という存在をなくしても。
バスは、暗くなってくる町を走り続ける。景色は少しずつ暗さを増しながら流れていく。
とんとん、と二度額をガラスに打ち付けてみた。硬い小さな音と、わずかに伝わる痛みで、華呼は自分がそこにちゃんと存在していることを感じた。
バスを降りて、通り道にあった店でお菓子を買った。このまま帰ってもあまり気分も良くならなそうなので、雨隠れ邸に寄ることにする。誰かいれば話しをするのもいいし、誰もいなくても、寮に一人でいるよりずっと雰囲気は良いはずだ。あそこには「誰かがいる」という「雨隠れ邸の記憶」があるから。
歩きながら、少しずつそこへ戻っていくのを感じる。
そこへ、戻る。
家に対しても、学校に対してもそういう言葉を自分は使うんだな、と華呼は思う。
帰るとは言わない。
帰る場所は、今はまだないから。
でも、銀誓館に入ってからできた友達と一緒にいると、それに近いことは感じることはある。
そういえば、色んな呼び方をされるようになった。
中学時代や、家と同じように、「烏兎沼さん」「華呼さま」と呼ばれることもあるけれど。でも今までのそれとは、まったく温度が違う呼ばれ方。それから…
華さん、華ちゃん、華呼ちゃん、華呼、華呼先輩、烏兎沼、烏兎沼ちゃん、烏兎沼先輩…。
ひとつずつを、呼んでくれる人の声と合わせて思い出すと、すこし笑みがこぼれた。
大丈夫。「妹」はここまでは追ってこない。
その代わり、ふいに兄の言葉が蘇る。
…僕を置いて行っていいんだよ、と。
時々彼が口にする言葉。
それを言われるたびに、華呼は口元まででかかる言葉がある。
血が繋がってないからですか?
本当の兄妹じゃないからそう言うんですか?…と。
それを告げたら、兄はどんな顔をするだろう。華呼はまったく覚えていないと思っているだろうから。
いや、きちんと覚えているわけではないけれど。
そういう繋がりがわたしたちにないのは、わかる。
血がつながっている者同士は、何かしらそういう絆めいたものを感じるらしいが。逆に華呼は兄にそれをまったく感じない。
たぶん、遠縁とか、薄いつながりはあるのだろうけれど。本当の兄妹ではない。
それでも。その事実を口に出して、この薄っぺらい繋がりさえも切れてしまうのが怖くて、華呼はまだ兄にそれを告げない。時々、鏡の中の自分に一樹の面影を探して、その僅かに似ている部分を見つけては。親戚の「お兄さんに似ているわね」と言葉をもらうとたびに、安堵する。
このへんは憶測だが。長生きできない兄の変わりに、能力のある華呼を、血のつながりのある、遠縁の家から引き取ってきたのだろう。
その為だけの、人生を背負わせるために。
だから。
そこから、全部を捨てて出て行くことはできる。
帰る場所は最初からどこにもない。
最初から何も持っていないし、欲しいものもないから、きっと失くす物もないと思う。失くすのが怖いものもない。
…そう、数ヶ月前までは、思っていたけれど…。
と、華呼は足を止めた。顔を上げて、雨隠れ邸と名付けた古くて大きい、平屋の日本家屋の門の前に誰かがいるのが見えた。すでにこちらには気づいているらしく、華呼の方を見ている。華呼にもそれが誰かすぐにわかった。
暗かった表情を一転させ明るくし、華呼は手を振る。
「芹香先輩っ」
その名を呼んで、駆け寄る。同じ結社の仲間の、紗夜宮芹香だ。
「こんにちは、華さん」
わずかに笑みを浮かべ、芹香が言う。華呼も笑う。
「こんにちは、芹香先輩。良かった。誰かいないかなって思って来たんです」
「…どうか、したの?」
「え」
ふいに問われた言葉に、華呼は問い返す。芹香は微かに心配そうな表情で華呼を見ている。
「…その。元気が、ないように思えたから」
なんでもないですよ。
そう言おうとしたが、言葉がつまる。
芹香に家のことを詳しく話したことはない。大きな家で、厳しい、くらいは説明したことがあったかもしれない。それでも、自分の置かれた状況を吐露したことはなかった。
たぶん、恥ずかしいから。
そういう自分が、恥ずかしいから。
兄に依存して。でもそんなのはふりで。家のことなんか大嫌いで。きっとそこを平気で捨てられるであろう自分のことが、恥ずかしいから。
なのに。
「えっと、」
この日は、なんとなくそれを口にする。あまり口にしたことがなかった類の、弱音。
「実家に行ってたんです」
それでもたいしたことないように。いつものように、どこか笑みを浮かべて。軽い感じで告げる。
「うち、結構厳しいんで。ちょっと疲れちゃいました」
そうやって、どこか良い子ぶっている。そんな自分にいつもがっかりする。
「…そう。お疲れ様、華さん」
それを言う芹香の声が、どこか優しくなる。
「それと…お帰りなさい」
はっと、華呼は顔を上げた。
…「お帰りなさい」。
…ねえ、兄さん。
こちら側に、わたし、帰る場所を作ってもいいでしょうか。
まだ、逃げ出す自分を許せない。
まだ、行き場はどこにもない。
まだ、自由の意味もよくわからないし、存在意義の消失に恐怖する。
それでも、きっといつかわたしはあそこを捨てる。それまでの自分を全部捨ててしまう。そうすることができたら、どこかに。
「こちら側」に。
居場所を作ってもいいんでしょうか。
帰る場所を。
「はい」
華呼は芹香に微笑みかける。
「ただいま、ですっ」
あの時。
兄に後を追う、と告げた言葉にそう深い意味はない。
ただ、思い知って欲しかっただけ。
そんな風に思って欲しくないと。
貴方のために命を投げ出してもいいくらいに思う人間がいることを。
そうまでして貴方に生きていって欲しいと思う人間がいるということを。
思い知って欲しかった。
でも。
たとえば、自分に対してそういうふうに思ってくれる人がいるとは、どうしても想像もできない。
だから、説得力がない。
ただ兄に、壊れかけている自分を見せつけただけなのだろう。
大切な人をたくさん作りなさい。繰り返される兄の言葉を実行していることが、兄には伝わらない。
それでも。わたしはこんなに大切な人が幾人もいるのに、あの家に行くと自分の全てが閉じてしまう気がする。
誰かを好きになって、好かれていたいのに。
そこまで踏み込むのに怖さも感じてしまう。
「あの、」
玄関に向かいながら、ふと華呼は思ったことをつぶやく。
「芹香先輩が男の方だったら、わたしと駆け落ちしてくれますか」
言葉にしてみると物凄い台詞だな、と華呼も思った。
でもすぐに取り消すこともせず。少しでいいから、反応が知りたかった。
だから、そっと芹香の方を伺う。
芹香は、一瞬、驚いたように微かに目を見開いた後、静かにまっすぐ瞳の奥をみつめて言葉の真意を測ろうとしていた。それを華呼は黙って、じっと彼女を見ている。
「…そうね」
静かに芹香が言った。
「その仮定の上で…華さんが真にそれを望んでいるのなら」
言われて。
華呼はほぅっと小さく息をつく。それは自分でもよくわからないが、安堵の息。
真面目な人に馬鹿な質問をしてしまった。それを少し申し訳なく思ったが。
でも、
「肯定してくれて、ありがとうございます」
言って、ふふっと小さく笑う。
「ちょっと元気出ました」
「…華さん」
微笑む華呼に芹香が呼びかける。一瞬、怒られるかとも思ったが、その声に怒りは含まれておらず。むしろ気遣わしげな色でもって、そのまっすぐな目が華呼を見ていた。
「もし、何か悩んでいる事があるのなら。…相談に、乗るから。私では役に立てないかもしれないけれど、ね」
その申し出に、今すぐにでも飛びつきたい衝動があった。涙が出そうになる程、嬉しかった。今まで、そんな風に言ってくれる存在は兄しかいなかったから。
全部、話したら。少しは楽になるのだろう。
思っていることを全部ぶちまけて。本当は優しくない、暗い想いを抱えている自分をさらしてしまえば。
…それでも。
わたしはまだ、「そういう自分」を、
……この人に知られたくは、ない。
そう、「まだ」。
だから、
「ありがとうございます。その、今はまだちょっと…でも」
でも、
「きっと、いつか。必ず、話を聞いてもらいます。あんまり楽しい話ではありませんが…。わたしが、あまり優しい人間じゃないってばれちゃいますし」
そう言って、芹香に笑いかける。
「でも、その時はよろしくお願いしますね」
きっと、わたしはわたしを捨てることができる。
すがりつく「妹」をあっさりと切り捨てる。
それでも。
自分を大事に思っていてくれる人の存在が感じられるなら、
捨てた自分でも、きっと大事にできる。ような気がする。
今までの存在意義の全部をなくしても。それを一から作れるくらいの強さを、手に入れようとあがくことができる。
それがどんなに辛い作業でも、もう一度、自分を作り直そうと。自分を奮い立たせることができるかもしれない。
だから家ではうつむきがちな顔を、ここでは上げることができるのだ。
「えっと、豆餅を買って来ました。お茶を淹れて食べましょう。ほかに誰かいらっしゃるでしょうかね」
言いながら、華呼は包みを持ち上げる。芹香が笑ってくれたことにほっとしながら、その扉に手をかける。
そして彼女に促されて、
華呼はそこへ「帰って」行った。
おわり
ご協力いただいた芹香先輩と、
ここまで読んでくださった方々に最大に感謝を!
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