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凍える夢見 3
彼女を「妹」と認識する要素。
同じ髪の色、同じ目の色。聞き覚えのある声。
わたしを見つめ返す、見覚えのある、暗い眼差し。
* * *
鳥子の両親を含め、親戚が何組か来ていたせいで、挨拶をして回るだけで随分時間をとってしまった。そもそも、「あいさつ」だけですむはずもなく。
皆が華呼を「次期当主」として見ている。彼女の気を引こうとしている。
それを華呼は乗り切らなければならない。当たり障りのない笑顔と言葉で。無関心すぎず、そして一所だけに贔屓をしすぎず。
……「妹」は、後ろにぴったりとくっついてきている。
誰にも見えない。華呼にしか見えない幻。
華呼の代わりに親戚たちをあざ笑っている。
ばかみたい。お姉ちゃんはあんたたちなんかに幸せを分けてあげたりしないのに!
逃げ出すんだもの!
わたしを捨てるみたいに!
…長い時間をかけて、ようやく華呼はそれらの儀式を済ませて廊下に出ると、ほっと息をついた。
そして最後に残す最大の難関。そこを通れば、今日のところはここを出られるのだ。
すっと息を吸う。そして、
「華呼さん」
呼ばれて、華呼は内心ぎょっとしながら顔を上げた。
最大の難関は、心の準備をする間もなく向こうからやって来てしまった。
「お母様」
その姿を認め、華呼は姿勢を正すと、一礼する。
「すみません、ご挨拶遅れました」
「いいのよ。他の方々を優先するのが良いやり方ね」
「はい」
一部の隙もなく。枯れそうな緑色の着物を着た母を前にすると、いつも威圧感を受ける。物心つく頃から、華呼に対して一部の礼儀作法を自ら教え込み、烏兎沼の人間としてのあり方を叩き込んできた。
その二人の関係に、母親と娘という間柄らしい甘い思い出など、何もない。
さらにはそれ以上に、父親とは言葉を交わしたことも少ない。
家族と言うのはそんなものなのだと、ずっと思っていた。
「一樹のことだけれど」
「はい」
「羽野塚さんのお嬢さんと一緒になってもらおうと思っているの」
母の思っている、は、彼女の中ではすでに決定事項だ。そこに、華呼や一樹の思慮が入り込む隙はなく。兄妹はずっと、母に支配されてきた。
これは相談でなく決定事項の報告。
今でも、華呼は母に逆らうことが出来ない。
視線を上げると、母はまっすぐ華呼を見ていた。目をそらせられないし、そらすことも許してもらえない。直接目を見るのは失礼だから、彼女の鼻の頭あたりを見る。目をまっすぐ見ることは、礼儀を抜きにしても、できない。
「あなたも、いつまでも一樹に甘えてないように」
「はい」
とりあえず、従順に返事をする。おとなしい顔をして。嵐がやむのを待つかのように、じっとしている。
「それと」
でも、嵐はいまだ去っていこうとはしてくれない。それから逃れるように、華呼は小さな声で「はい」と返事をした。
「貴方にもいいお話しがいくつかあるのよ。一樹はまだ貴方には早いというのだけど。でも、成人したら次期当主として働いてもらうようになるのだから。こういうことは早めに決めてしまった方がいいわ」
「あ、あのっ」
思い切って華呼は言葉をはさんだ。緊張で気分が悪くなる。空気に粘度があるかのように、吸い込むことが困難だ。息苦しい。いつもそう。母が空気を固体に変えてしまう能力でも持っているかのように。
「すみません、その、そういうお話なんですが」
母は相変わらず、能面のような顔で華呼を見つめている。無表情なのに、いつも何かを咎められているような気になってしまう。
「貴方にはそんなこと言う権利はないのよ」、と。
でも、華呼は薄い空気を吸う。言葉を途切れさせないために。
「せめて、学校を出るまで待っていただけないでしょうか。今はまだ、その、学生の間は学生らしくいたいんです」
まるで、心臓が耳元にあるかのようにどきどきとする。そんな状態のまま華呼は彼女の返事を待っている。
…わたしはいまでも、母が怖い。
当主は父だが、実質烏兎沼の本家を動かしているのは母だ。
華呼は幼い頃から彼女に価値観も、世間を見る目も、烏兎沼としての立ち振る舞いも、全てを叩き込まれてきた。
そこに疑問を差し挟むことも、逆らうことも許されなかったし、それを思う余地すら与えられなかった。
逆らってはいけない人、という意識を植え付けられてきた。
それでも華呼は外に出て、まったく別の価値観を知り、この閉じた世界を疑問に思うようになっていった。
それでも。
今でも、母は怖い。
逆らってはいけない。
そうすると、不幸になる。
ふいに思い浮かんだ言葉。妙に胸に残っているそれは、おそらく昔母に言われた言葉なのだろう。
不幸になる。
母を前にすると、今の自分の考えと昔の自分の考えと、どちらが正常なのか判断することができなくなることがある。
ほんの数秒の、長い長い間。
「…そう。まあ、いいでしょう」
ふいに母は言った。
「学生としての本文と、烏兎沼の名に恥じない日々を送ってくれるなら。貴方にも覚悟を決める時間が多少なりとも必要でしょう」
一瞬意外に思ったものの。顔には出さずに、頭を下げた。
「ありがとうございます」
母は、わかっているんだ。
華呼が一樹に依存していると。とても、まだ精神的に。
一樹がこの家に囚われている間は、華呼はこの家に戻るしかないと。
だから一樹をまだ解放しはしないだろう。華呼をここに繋ぎ止めるために。
…つまり、母は華呼がひどく迷っていることも見通しているのだ。
そして、またここに戻ると。
でも、
……それは少し見くびられている気も、する。
「それではわたし、学校に戻りますので」
「そう、車を出しましょう」
「え、いいですっ。バスで行きますからっ」
あわてて言う華呼に、母はあきれたように言う。
「烏兎沼の娘をそんな公共機関で運ばせるわけにはいかないでしょう」
「でも」
華呼は必死で考える。
「駅前の本屋で参考書買うので。それに、普段は一人で動いているので大丈夫です。公共機関にも随分慣れました」
「華呼さんは気の抜けていることが多いから、心配だわ。気をつけなさい」
その声音に優しさは感じられず。それは、母としての心配ではなくて。烏兎沼を取り仕切る者としての心配。
そんなのはずっとだし、慣れている。それに……。
「それでは、行きますね」
それは、当然のことだから。
「近いのだから、出来るだけ家に帰ってらっしゃい」
「はい」
うそつき。
真顔の言葉に、今度は「妹」ではない自分が、自分の返事に心の中で罵って。
いつだって、帰ってくるつもりなんてない。
そもそもここに「帰る」という意識がない。
帰る場所。
そんな所、自分にあっただろうか。
「それでは、失礼します。当主様にもよろしくお伝えください」
「ええ、気をつけて」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、華呼はきびすを返した。ようやく終えた儀式。
母の視線を背中に痛い程感じながら。彼女は何を思って自分の背中を見送っているんだろうと、ほんの少しだけ興味を覚える。
…そういえば、母を前にしていると「妹」はいなくなる。
「妹」の罵り声を聞くことはない。
空気はいまだにゼリーのように硬くて、息苦しかった。
* * *
家を出ようとすると、車が待っていた。
華呼は軽く頭をおさえる。
…そう。母が口にしたらそれは決定事項。覆りはしないのだ。
溜息をつく。
そこへ歩み寄ると、年配の運転手が華呼を促した。
「お送りします」
「あの、いい、です。バスを使います」
「しかし、奥様に叱られますので」
華呼は困ったようにしばらく黙ったが、鞄から財布を出し紙幣を何枚か出した。そして、駅前の洋菓子屋の名前を挙げる。
「そこで、プリンをいくつか買って兄へ差し入れてください。今回、お見舞いを持ってこなかったので」
「華呼様は」
「バスを使います」
きっぱり言って、紙幣を運転手に押し付ける。
「しかし、」
「わたしは」
華呼はひたと彼を見据えた。
「一人にして欲しいと言っているんです。わかりましたか?」
いつもとはまったく違う、鋭さのある声と言葉。幼い頃から叩き込まれ、今でもなりを潜めているものの、本当は彼女の中のどこかでくすぶり続けている。次期当主としての声と言葉。
「……はい」
運転手が引いた。華呼は軽く会釈をするとその脇を通り過ぎる。
ああ、またやってしまった。
いくらか歩いてから。内心暗い気分になりながら、華呼は重い溜息をつく。
この家の中の異様な世界に気づくまで作り上げてきた「烏兎沼華呼」が、まだ自分の中にはいる。時々それを振りかざしてしまう。この世界ではそれが楽な時があるから。
でも、その世界から出たいならそれは止めなくては。
しかしそれを止めると、家の中のほとんどが思うようにならなくなるという厄介な事象もまた事実で。
もう、戻りたくないな。
いつも家を出ると、そんな言葉と共に重い荷物を降ろしたかのように体が軽くなる。そんなわけには行かないことも、分かっていても。
兄さんには会いたいし。兄さんがわたしを庇う度に、家での居場所が磨り減っていく感じもするし。
…鳥子さんは、兄さんを守ってくれる人かしら。
空を仰ぐ。
もうじき夕焼けの時間だ。けれど、今日は天気が悪いからあたりはどんよりとした色をしている。重い灰色。今の気分と同じ。
バス停の位置で立ち止まり、時刻表を覗き込む。十数分待てばバスが来るだろう。身を起こそうとしたとき。
お姉ちゃん。
幻が、まだ着いて来ていた。いつものように罵りの言葉を紡ぎながら、華呼の手を掴む。
『どうして行くの? わたしを置いていくの?』
あなた、誰。
『知っているくせに、どうして知らないふりするの?』
どうしてわたしにつきまとうの。こんなところまで着いてこないで。あの家だけにいなさいよ。
『わたしを捨てるんでしょう。邪魔だから』
何を言っているのかわからない。
『うそ。知っているくせに』
自分だけが幸せになれればいいと思っているくせに。兄さんが大切だとか言い訳しながら、迷ったふりしながら、罪悪感を感じているふりをしているだけのくせに。本当はあんな家、いつでも捨てられるんでしょう。お姉ちゃんには関係ないんだもの。無理やり家から鎖をつけられていることに、烏兎沼丸ごと憎んでいるくせに。兄さんも、母さんも、父さんも。誰のことも好きじゃないくせに。そういう自分を畏怖しているから、兄さんに執着しているふりをしているんだ。自分がそういう人間であることにしたくないから。本当は自分のことしか考えずに、家族も何もかも捨てられる人間のくせに。全然優しい人間なんかじゃない。人と衝突するのが嫌で。自分が悪い側に立ちたくなくて。適当にやわらかい言葉で人に優しくするふりをして、いい子のふりをしているだけのくせに。嫌われたくないから。そうやって、ここにわたしを捨てていくんだ。うそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつきうそつき…
「うるさい」
静かな。
凍りついた湖のように、澄み切って、静かで、儚い。
そして冷たい声で華呼が告げた。
その細い声に似つかわしくない言葉を紡ぐ。
「うるさい。黙れ」
そう言って、華呼は一度目を閉じる。幻を消すために。
そのまま数を数える。いち、に、さん、し、ご。
そして目を開ける。
直前、幻聴が耳を撫ぜる。
わたしを捨てるんでしょう。お姉ちゃん。
その手元に視線を落とす。
まるで、冷たい風がそこだけに渦巻いているかのように、手は冷え切っていたが。
そこには、何もなかった。
つづく
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