その塾へ行く途中。
バス停に止まっていたバスが動き出す。何人かの乗客が増えたが、席は一杯だ。
氷辻はさっさと立ち上がり、今座っていた座席に鞄を置いて確保しておくと、少し離れた場所に立っていた老婦に近づいた。
「あの、もし迷惑でなかったら、座りませんか?」
了承してくれた老婦を席に導いて、氷辻はそこから離れた場所に立った。降りるバス停まではあと3つ。
と、
ぽんと、肩を叩かれた。
「一七夜月さん」
ぎょっと氷辻は振り返る。振り返るよりも先に、その声で正体はわかっていた。
「田川さん」
見られた。
そして、その瞬間に思ったのはそれだった。
顔が熱くなる。誰にも知られたくなかったこと。それを。
しかし、氷辻の動揺に気づかず、いつものようなにこやかさで李亜は話し続ける。
「ずっとね、声をかけようと思ってたんだけど。なんかいつも一七夜月さん声をかけづらい雰囲気で。今日、やっと」
「ずっと……?」
嫌な予感に、氷辻は眉をひそめた。
「うん、わたしも時々用事があって、このバス乗ってたんだ」
その予感が的中してしまい、氷辻は言葉を失う。
「一七夜月さん、絶対年配の人に席譲るよね。あれ、なかなかできることじゃないから、いいなって…」
「…誰かに、このこと言った? 先生とか」
「え。別に…」
「言わないで」
即座に叩きつけるように氷辻は言った。
「どうして。別に悪いことじゃないし、むしろ褒められる…」
「言わないでっ」
声を抑えてはいるものの、その激しい迫力に押されて李亜は「う、うん」とうなづいた。
「でも、どうしてって、訊いていい?」
「やさしくないから」
小さな声で氷辻は言った。
「え? 誰が」
「わたしが」
「え、なんで…」
バスがバス停で止まる。
「降りますっ」
氷辻は運転手に声をかけて、ドアを開けてもらう。
「一七夜月さん」
時々このバスに乗っていたのなら、彼女が降りるのがここでないことも分かっているだろう。それでも。
氷辻は逃げ出すようにバスから降りて、走り出した。顔が熱い。
恥ずかしかった。
氷辻はその行動が優しさから来ているものでないことが、分かっていた。
優しい人間に憧れるのに、そうすることはひどく難しくて。そもそも、友達を作ろうとしない心情とそれは矛盾していて。
身近な人に優しくすることはできないから、だから見ず知らずの人にだけ、そういった行為をする。
でもそれはやさしくない。
自分の自己満足だし、エゴだし、偽善だ。
それを見られた。
…恥ずかしい。
羞恥で頭ががんがんする。
きつく唇を噛締めて、氷辻は走った。
翌日の学校は憂鬱だった。
どんなふうに李亜と向き合えばいいのかわからない。
それでも、優等生である氷辻に学校を休むという選択肢はなかったし、遅刻などともってのほかだ。故に、いつもどおり余裕をもって学校についた。
そして、
「一七夜月さん」
教室に着くよりも少し早く、その時は来てしまった。
教室に入ろうとする廊下で後ろから声をかけられる。びくりとして振り返ると、李亜がこちらを見ていた。申し訳なさそうな顔をして。
「昨日、ごめんね。わたし、何か悪いこと言ったんだね」
そう言って、彼女が近づいてくる。それだけで、氷辻は逃げ出したくなる。
彼女は悪くない。
ただ、わたしがわたしの嫌な部分を誰にも知られず、隠しておきたかっただけだ。そうすることで、自分でその部分を見つめなおしたくなかっただけだ。
「でも、一七夜月さんはやさしくないなんてことないと思うよ」
やめて。
「だって、わたし知ってるの。あの」
やめて!
「わたしのこと、一人で可哀想とか思っているんでしょう」
ふいに、氷辻は押さえた声で言った。「えっ」と言って、李亜は言葉を詰まらせたように黙る。
「わたしは、好きで一人でいるの」
無表情のまま、氷辻は言った。李亜の顔をまっすぐ見れない。でも、言葉は止まらない。
「友達のいない人は可哀想とかいう、貧困な発想は持ってないの。友達が多い方が立派な人間だとか、そいういう考え方は軽蔑してるから。そんな価値観を押し付けて、親切ぶらないで。迷惑だから」
そう言い捨てると、李亜の顔も見ずに教室へ駆け込んだ。
……ひどいことを言った。
自分の席についた瞬間には、ひどい後悔が押し寄せてきた。しかし、口に出してしまった言葉はもう戻せない。
鞄から参考書を引っ張り出して、開く。でも内容は一文も頭に入って来ない。
李亜が教室に入って来たのか、席に着いたのかもわからなかった。顔は上げられない。ましてや李亜の様子を伺うなど、できるはずもない。
……謝らなくちゃ。
そう思ったが、謝る術を氷辻は知らなかった。その事実に思い当たって愕然とする。
一人で、なんでもできるようになりたいと思っていた。そうやって生きていけると思っていた。
でも、それでは手に入らない機微もある。
氷辻はただうつむいたまま、その日を過ごした。
李亜はもう話しかけてこなかった。
当然だ。と氷辻は思い、少し肩の力が抜けるのがわかった。
それが寂しさなのか、安堵なのか。自分自身にもよくわからなかった。
その夜から氷辻は熱を出した。
昔から、心配事や不安ごとがあると、貴方は熱を出すわね。と母が言った。
何か心配事でもあるの?
氷辻は力なく首を振る。
寝込むのは久しぶりだ。小さい頃はよくあったが、小学校3年生くらいから、そんなこともなくなってきた。
だから。
体が弱っていて、心も弱っていくのがわかった。
悪夢を連れてくる。
あれが来る。
氷辻はそれに抵抗しようとしたが、夢は、意識すればするほど引き寄せるようだった。
あの日を夢に見る。
息が出来ないほどの、苦しさ。
死ななければ楽になれない。でも、すぐそこにある死に手を伸ばせない。
それに手が届いてしまうのが怖い。
それが、怖い。
助けて、と思う。でも、誰に助けを求めていいのかわからない。
神様などいないことは、随分前から知っている。だから。
助けてやろうか、と悪魔が囁く。
お前の大切な人間を差し出せば、助けてやろう。
たとえば両親。たとえばクラスメイト。たとえば友達。
いないから。
友達なんて、いないから。
ああ、でも、それにうなずけばこの苦しみから逃れられるだろうか。
この恐怖から逃れられるのだろうか。
悪魔は囁く。
たとえば、田川李亜。
ふいに問いかけられる、具体的な名前。それによって、氷辻は彼女の顔を思い浮かべた。
いつもにこにこしていて、氷辻にも他のクラスメイトに話しかけるように話しかける。氷辻の読んだ本に興味を持って、自分でも読んでみたりしていた。氷辻の偽善をいいなって言ってくれた。
…やだ。
苦しい。死が近づいてくるくらいに、苦しい。
何かと引き換えれば、この苦しみは消えるのだろうか。
でも、やだ。
田川さんは、やだ。
悪魔は変わらずに告げる。
差し出せば。
「いやだ!」
言って、氷辻は目を覚ました。
そこは、彼女の部屋で。
悪魔など、どこにもいなかった。
3日ほど、氷辻の熱は引かなかった。
そして、なんとか体調を持ち直して学校に出て行き、
田川李亜が転校したことを知った。
元通りの日常が戻った。
相変わらず氷辻は、休み時間に本を読み、勉強をする。
話しかける者はいない。それを寂しいとは思わない。
だけど。
…田川李亜がいないのは、
少しだけ、寂しかった。
少し迷ってから、氷辻は職員室にいる担任に授業の質問(これは名目)に行った。そして、やはりさんざん迷ってから、尋ねた。
「先生は、田川さんに、わたしと友達になるようにって言いましたか?」
担任は少し不思議そうな顔をした。氷辻が誰かに興味を持ったことが珍しかったのかもしれない。けれど、すぐに微笑んだ。
「先生からは何も言ってないけれど。でも、友達になったらいいな、とは思ってた」
たとえば。
職員室を出て、廊下を歩きながら氷辻は考えた。
たとえば、田川さんが自分から氷辻と友達になりたいと思ったとしたら。
そこまで考えて、首を振って否定する。
それはありえない。
だいたい、あの時田川さんが話しかけてくるまで、まともな会話をしたこともなかったのだから。氷辻としては、その存在を気に留めたこともなかった。
それなのに。
「一七夜月、さん?」
ふいに、呼び止められた。教室付近まで来た廊下。顔を上げると、知らない少女がいた。ショートカットの、快活そうな少女。
「一七夜月、氷辻、さん?」
もう一度、彼女は確認するように言った。
さすがにクラスメイトに見覚えがないということはないだろうから、別のクラスの少女なのだろう。少なくとも氷辻は、名前も顔も知らないが、こうして呼び止められているということは、彼女の方は氷辻を知っているらしい。…にしては、呼び方が疑問系だが。
氷辻は小さくうなづくと、少女はある程度の確信があって言ったのだろう。やっぱり、というふうに一歩前に出た。
「わたし、田川李亜の幼馴染で、野間」
田川の名前に、一瞬氷辻は息をのむ。
「その、李亜のことで。ちょっとだけ、いい?」
相変わらず氷辻は黙ったままうなづいた。
「李亜ね、転校は随分前に決まってたんだけど、クラスの友達には言わないで行くって言ってた。けど、その前に、出来れば一七夜月さんと友達になりたいって」
胸を、えぐられたような気がした。
だって、それは、ありえないはずで。
「最後に怒らせてしまったって、とても後悔していた。謝りたかったって。だから、許してあげて欲しいの」
「それは、その、田川さんが悪いわけじゃないから。全然、気にしては…」
「そっか、良かった」
そう言って、話を終わらせて行ってしまおうとする野間を氷辻は慌てて呼び止める。
「あの、えっと…田川さんは、どうしてわたしと友達になりたいって思ったのかしら」
野間が不思議そうな顔をする。氷辻はわたわたと言葉を続けた。
「その、わたし、全然田川さんと話したことなかったし。教室でも、他の人ともほとんど話さない人間だからっ。どうしてそうなったのか、不思議で…」
言いながら、氷辻はふと思いついた。
…バスか。
そう思い当たって軽く失望する。
そんな、作り上げられた自分に興味をもたれるのは、ひどく屈辱的だった。
「図書館で」
「え」
意外な野間の言葉に、氷辻は声を上げた。
「市立図書館で、見かけたって」
田川と図書館、というのが氷辻には上手く想像が出来なかった。確か、本はあまり読まない人間だと言っていた。
その不思議そうな様子が伝わったのか、野間は説明を続ける。
「夏休みの自由研究の資料を探しに行った時だって。まとめの頃だから、夏休みはもう終わってたかな」
「……うん」
「休日だから、小さな子どもが多くて、うるさくしているのを、一七夜月さんはその親に遠慮なく怒っていたって」
氷辻は軽く頭を押さえたくなった。
心当たりはある。確かにそんなことをした。
「図書館は静かに過ごすところでしょう。それが出来ないなら出て行きなさいな」
しかし、それの何を見て、友達になりたいと思うのか。
「その後、なんだか親に図書館で待っているように言われたらしい子どもの面倒見てて、本を読んでやったりしてたって」
「…………そこまで」
見られていたのか。全然気づかなかった。
もっとも、あの頃はまだ李亜の存在はなんとなくしか知らなかったのだから、彼女が氷辻を見ていることに気づいたとしても、気に留めはしなかったろう。
「一七夜月さん、子ども好きなの?」
「大嫌い。人違いだったんじゃないかしら」
「ふうん」
野間は小さく笑って相槌を打つ。
「その時、子どもが何か言って、一七夜月さんが吹き出して笑ったって。その時、この人こんなふうに笑うんだって。それが良かったって」
子どもは嫌いだ。
だって、手がかかる。……面倒を見ずにいられなくなる。
「教室でも、そうやって怒って笑って欲しいなって言ってたよ」
言葉に無くしてしまったかのように、氷辻は黙り込んだ。そしてその感情をもてあましていた。
何か、言わなくては。何か。
「李亜に、何か伝言しようか」
惑う氷辻より先に野間が言った。
その申し出に氷辻は顔を上げ、何か言いかけた。
ごめんなさい、と、伝えてもらおうかと思った。
だけど。
「……ううん。いい」
「そ? もし、李亜の連絡先を知りたかったらいつでも言って」
「……ありがとう」
言って、氷辻は踵を返した。
どうしていいかわからなかった。
そんなこと、知らなかった。知らなければよかった。でも、知ってしまった。
教室に向かいながら、なんどもそれを思った。
とにかく確かなのは、
わたしは自分を好きになってくれた相手を、自らの手で傷つけた、ということだった。
あの時。
同じ本の、同じ箇所を好きだと言ったとき。言葉につまった。
本当は、友達になりたいと思っていたから。
でも、それはできない。
昔、自分を思い知った記憶の呪縛が、今も彼女を戒めている。
友達になっても、わたしはきっといつか友達を裏切る。
自分の恐怖のために、彼女を犠牲にする。
そんな事態は来ないかもしれない。でも、来るかもしれない。
もう、自分のそんな部分を思い知らされるのは、嫌だ。
あの、真っ暗な、自分に対する絶望を、もう感じたくはない。
わたしは自分の弱さを知っている。だから、大事な人が出来てしまったら、ずっとそれを突きつけられ続ける。
それに耐え続ける自信がなかった。
優しくなりたい。
でも、それを実現するには、自分の性格や気性ではとても難しい。
いつのまにやら高くなってしまったプライドが、それを許さない。
それに、いずれ裏切るやさしさなんか、持っていても意味がない。
けれど。
もっと優しい人間だったら、誰かを傷つけたりしないだろうか。
もっと強い人間だったら、恐れずに、差し出された手をとることが出来るのだろうか。
以後、氷辻の言葉は少しだけ柔らかくなった。
しかし、相変わらず対人関係を拒絶した。
時々、やはり氷辻を誘ってくれるクラスメイトがいたが。
「ごめんなさいね。今はこれをやりたいから。」
柔らかく拒絶した。
悪魔の呪いは、ゆるやかに薄れつつあった。
あの時、確かに拒絶できた。それが、小さな自信になってなくもなかった。
しかし。
また別の呪いが彼女を捕らえていた。
誰かが好きになってくれても、わたしはその人を傷つける。
「最初で最後のラブストーリー」に続く。…たぶん。